加藤’s EYE

発散しよう!コロナストレス
ゴム商社マンの世界オフショット紀行⑧~ポーランドで感じた責任とは?

今回の出張先はポーランド・クラクフ。この商社マン自身も何度もポーランドへは行っているようですが、今回は人類にとって大切な何かを感じた特別な出張になったようです。さあ、彼の話しを聞いてみましょう。


2009年7月某日

某日本のタイヤ会社の方を案内してポーランドへ出張。目的はポーランドのある粉末硫黄、酸化亜鉛工場の視察だ。現在のポーランドの首都はワルシャワだが、視察先の場所に便利なクラクフという街に宿泊した。クラクフはポーランド南部にある都市で、ポーランドで最も歴史ある都市の一つ。17世紀初頭にワルシャワに遷都するまではポーランド王国の首都であったそうだ。なるほど、街並みに歴史を感じる。

工場の視察はそれなりの成果をあげて終了したが、次のスケジュールの都合でこの街で1日間フリーの日ができた。観光や美食を貪ろうと嬉々として現地のガイドブックを開いたが、思いもよらぬものが目に飛び込んできた。この都市から1時間のところにアウシュビッツ収容所跡と博物館があるというのだ。こんなところは観光気分でいくところではない。あわててガイドブックを閉じた。

しかしその夜、ホテルのベッドに横たわると、「お前はここを見る責任を放棄するのか」と誰かが自分にささやく声がして止まない。いったいなんの責任なのだ?眠れぬ夜を明かし、果たして、翌日収容所跡に行くツアーバスのシートに腰かけて車窓から外の流れる景色を眺める結果となった。

その日、天気は良かったのだが、到着早々何とも言えない重苦しい気配を感じたのは自分だけだろうか。敷地内に入ると、履いた靴が妙に重たくなった。

そこは、ユダヤ人が各地から鉄道で集められ、収容された大規模な第二収容所。ナチス・ドイツが第二次世界大戦中に国家を挙げて推進した人種差別による絶滅政策(ホロコースト)および強制労働により、最大級の犠牲者を出した強制収容所である。130万人が収容され、内110万人(約90%)がユダヤ人だったとボードには書かれている。

労働力確保の一方で、労働に適さない女性・子供・老人、さらには「劣等民族」を処分する「絶滅収容所」としての機能も併せ持つといわれ、一説には「強制収容所到着直後の選別で、収容者の70-75%がなんら記録も残されないまま即刻ガス室に送り込まれた」とされている。このため、現在にいたっても正確な犠牲者の数は把握されていないそうだ。

そんな凄惨な歴史が実際におこなわれた施設空間に身をおいてみると、自分事として収容された人々の絶望感が伝わってくる。人間は本当に残酷になれるものだと、心が重たくなった。当時使われていた用具の展示物や、シャワー室と言われたが実はガス室であった部屋の内部などは、さすがにリアルすぎてシャッターを押す気になれない。

博物館で、写真地図を見ていると収容所のすぐ近くに合成ゴム工場があるのを発見した。(写真で表示のABCは収容所、Dが合成ゴムSBR BR工場)現在のポーランドSYNTOS社の合成ゴム工場である。

説明書きを読むと、ドイツが占領中、ドイツ国内の合成ゴム工場が連合軍に空襲されそうになったので、ドイツがあわてて、アウシュビッツの収容者を使って近くに突貫工事で合成ゴム工場を作らせたと書かれている。収容所博物館の売店でその歴史を書かれた英語の本を買った。戦争に利用された合成ゴム製造がアウシュビッツの悲しい歴史に絡んでいたとは。ゴム産業に携わるひとりとして、このことは生涯忘れないでおこうと思った。

帰りのバスに揺られながら、ふと30年前のことを思い出していた。その頃の自分は某商事の社員で、ポーランドには毎年出張していたのだ。

当時ポーランドは東側の国で、ワルシャワ市内を社有車で動くと、車の後ろに秘密警察の車が尾行し、宿泊するホテルの部屋には盗聴マイクが仕掛けられていた。しかし、今はどうだ。仕事では英語が通じる。特急列車に乗るにも、その指定席が日本からインターネットで予約でき、街の中央郵便局でパスポートを見せれば特急券を受け取れるボーダレスな世界。たった30年間でも隔世の感がする。

今、街に戻って、あらためてあたりを見回した。明るい、そして文化歴史のある美しい街だ。広場のオープンカフェで夕方ビールを飲んでいると、心の底から平和であることに感謝を感じる。

昨夜、収容所跡を訪れることが自分の責任だとささやかれた理由が解った。

あたりまえの日常。その中に埋没する当たり前の平和。それを享受する者たちにとっての責任とは、「人間として失ってはいけないもの」を決して忘れぬことなのだ。