Episode “0” 『興味索然』の巻
作/さらしもばんび
監修/加藤事務所
1995年3月
白ゴム商事の新入社員1年目である花咲は、多くの報道関係者とともに山梨県の小高い丘にいた。彼は放送のために忙しく立ち振る舞う報道関係者とは異なって、猊下で繰り広げられている光景が全く信じられず茫然と立ちすくんでいた。
猊下では、砦の門に盾と警棒を持った機動隊の大群が押し寄せている。砦の中では白茶けた麻の服を着た群衆が、機動隊を門の中に入れまいと必死に抵抗している。やがて数と装備に勝る機動隊が門を押し開き、ダムが決壊したかの如く砦の中になだれ込む。機動隊が進軍を阻む人を盾と警棒で排除していく様は、剣や銃や弓矢はなかったものの、まさに黒澤明が描く「天と地と」で描かれた合戦そのもの。
花咲は自分が関わってしまったことの重大さに膝が震え、足腰の力も萎えて、力なく泥土の中に跪いた。
現代
※
花咲と清水はベトナム・ホーチミン市の屋台村で盃を交わしていた。清水はグラスに満たされたベトナムビール「333(バーバーバー)」を一気に飲み干す。
「かぁーっ、うまっ! しかし花咲部長とこうして飲むのも久しぶりですね」
「そうだな。けど清水…よくこの時期にベトナム出張が許されたな」
「社長が花咲部長の様子を見て来いって…」
「なんだそういうことか…社長は俺を信用してないのか?」
「違いますよ、自分が花咲部長に会いたくてお願いしたんです」
「ハハハ…それで出張させてくれるなんて社長も太っ腹だな」
「理由なんてどうでもいいじゃないですか、こうしてふたりで酒を飲めるなら…ところで、新事務所の方も落ち着きました?」
「ああ、俺も慣れてようやく現地の人といいコミュニケーションがとれるようになった」
「そうですか…よかった。コロナも落ち着いてきたしモノも人も動き始めた。これから本格始動ですね」
「ああ…ところで日本の様子はどうだ?」
「まあ、日本もコロナが落ち着いてきたから国内の外国人も増えたし、商談も増えてきましたよ」
「そうか…お互い忙しくなるな」
「ええ…そういえば国内のニュースといえば、応援演説中に元首相が狙撃された事件知ってます?」
「ああ、こっちでもトップニュースだった。ただ狙撃されたってことだけで、ニュースのディティールはここでは報道されないのでよくわからん」
「そうですか…狙撃したのは、41才の元自衛隊員。動機はある宗教団体への恨みだそうです」
「ええっ?宗教団体への恨み?それがどうして政治家への狙撃につながるの?」
「その宗教団体を巡っては、『母親が多額の寄付をするなどして、家庭生活がめちゃくちゃになった』と犯人が供述していて、その宗教団体と元首相につながりがあると思い込み、犯行に至ったようです」
「そうなのか…」
花咲はそう言うと、ベトナムの夜空を仰ぎながら黙り込んでしまった。
「なんですか、花咲部長。妙に黙りこくっちゃって」
沈黙に耐えかねて清水が花咲に話しかけた。花咲はその問いに我に返ったように清水に視線を戻す。
「いやね…宗教団体って言うと、俺にも強烈な思い出があってね…」
「なんですか、その思い出って?」
「いや、人様に話すようなことでは…」
「水臭いな、そこまで言うなら全部言ってくださいよ」
「そうか…」
花咲は333(バーバーバー)をひとくち口に含むと、静かに話し始めた。
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1995年。新年も明けて、新卒で白ゴム商事に入社した花咲も、間もなく社会人2年目に入ろうかとしている。この頃には彼も仕事にも慣れて、なんとかひとりで営業の普通の業務がこなせるようになっていた。もっとも、当時の白ゴム商事は会社も小規模で従業員も少なく、なんでもひとりでこなさなければならいない職場環境でもあったのだ。
花咲のデスクの電話が鳴った。
「はい、白ゴム商事です」
若々しい花咲の声が終わるのを待たずに、受話器越しにだみ声がかぶさってきた。
「腹黒商会の菊田だけど…」
「ああ、菊田社長ですか、ご無沙汰しております」
実は、若い花咲はなにかとクレームを投げつける自己中な菊田社長が苦手だった。
「お宅『粉末硫黄』を2トン手配できる?知り合いの会社から引き合いがきてるんだ」
ゴムの製造工程では、必ず「加硫(かりゅう)」という工程を経る必要がある。加硫しなければ、私たちが想像する弾力性を持ったゴムにならない。『粉末硫黄』はその工程に使われる貴重な加硫剤である。
「ええなんとかなると思います」
「じゃ、すぐ見積書ファックスで送ってくれるか」
言いたいことだけ言うと、愛想もなくそのままぶちっと通話が切れた。
花咲は相変わらず自己中の菊田社長の所業に首を振りながらも、工場に連絡。納品可能な2トンを確認して見積もりを作成。いざファックスを送る段で、思い直す。
『そうだ!いつも値切ってくる菊田社長だから、ちょっと多めの単価にして送ってやれ』
花咲は見積書の額を修正し、ファックスを送った。
すると、送った直後に花咲のデスクの電話がけたたましく鳴った。『早速菊田社長から、見積もり単価のクレーム電話かよ…』花咲はしぶしぶ受話器を取る。
「花咲さんかい」
「はい…」
「見積もりは受け取った。その金額でたのむわ」
「えっ?」
菊田社長の予想外の返事に花咲は受話器を落としそうになった。
「手数をかけるけど、できるだけ早く受注確認書送ってくれるかい」
『手数をかけるけど…』未だかって菊田社長口から聞いたことの無い言葉。花咲は戸惑うあまり、送られてきた発注書に記載された納品先に、大して注意が払えなかった。
+
2週間後
+
外出から帰った花咲に、事務の女性が心配顔で言った。
「花咲さん、刑事さんが面会に来て会議室でお待ちだわよ」
「えっ?刑事さん?」
『何かしでかしたのか俺…』花咲は刑事が待つ会議室へ急いだ。
「お待たせいたしました…花咲です」
会議室に入ると、刑事がふたり。席を立ちもせず花咲を上目遣いで眺めている。
「お忙しいところすみません。警視庁刑事部捜査一課の柏木です」
「成瀬です」
ふたりは名刺を渡す代わりに警察手帳を花咲に示した。花咲はふたりの前に座ると心配顔で話を切り出す。
「それで、ご用件は…」
柏木は胸の内ポケットから紙片を取り出すと花咲の前に置いた。
「花咲さんは2週間前、腹黒商会からの発注で『粉末硫黄』を2トン手配されましたよね」
「はい」
差し出された紙片を見ると、それは2週間前の腹黒商会からの発注書であった。
「この発注書に記載されている納品先に、確かに納品されましたか?」
「ええ…運送会社に頼んで…納品先の受取書もありますよ」
「そうですか…」
もう一人の刑事がいきなり花咲に詰め寄る。
「花咲さんはその納品先がどんなところかなのかはご存知でしたか?」
その勢いに花咲も一瞬息を飲んで身構える。
「いえ、知りません…ゴム工場じゃないのですか?」
その花咲の答えを聞いて、ふたりの刑事がぼそぼそと話し込む。花咲の耳にはその声が届かず、何を話し合っているのか分らない。不安になった花咲は刑事同士の会話を遮った。
「いったい何があったんですか?」
ふたりの刑事は花咲に向き直って言った。
「いや…詳しいことは…今回は納品されたことが確認できましたのでこれで失礼します」
ふたりの刑事はそう言うと、退出の礼もせず立ち去って行った。
+
刑事が帰った後、花咲の胸の中で漆黒の不安が渦巻き始めた。
すぐに、『粉末硫黄』の納品を頼んだ運送会社に連絡する。
『港北運送です』
「白ゴム商事の花咲です。臼井社長いらっしゃいますか?」
『はい…社長、白ゴム商事さんから…』事務員の呼ぶ声に臼井社長が受話器を取った。
『臼井です』
「花咲です。いつもお世話になってます」
『ああ、花咲さん、どうしたの?そんなに慌てて…』
知らずと花咲は咳き込んだ口調になっていたのだ。
「この前、『粉末硫黄』運んでもらったじゃないですか」
『ええっと…2週間くらい前だったっけ』
「そうです。その時の運送は誰が…」
『たしか…高橋だったと思うが…』
「納品先が工場じゃなかったかどうか聞いてもらえますか」
『いいけど…おい高橋…』
受話器越しに臼井社長がオフィスにいる高橋に問いかける声が聞こえた。
『…どうも、工場じゃなかったらしいぞ』
「どんなところだったんですか?」
『…砦…みたいなところだったそうだ』
翌日、花咲は納品先を確かめるべく中央本線特急の車中の人となっていた。
納品先の最寄り駅に着くと、花咲は目をむいた。ありとあらゆる報道機関のマークの付いた車両や中継車が駅のロータリーに集結している。
花咲はタクシーに飛び乗ると運転手に行先を告げた。
「えっ!お客さん、もしかしてあそこの人じゃないだろうね」
そう言ったっきり運転手は車をいっこうに発進させない。そのかわり、バックミラー越しに、花咲を訝しげに見つめるだけだった。
「あそこの人って…どういう意味ですか?」
「『インコ真正教』の信者ってことだけど…だとしたらも申し訳ないが他の車をあたって…」
「ええっ!そこは『インコ真正教』の施設なんですか?」
『粉末硫黄』はゴム製造においては欠くことのできない材料である。と同時に火薬の製造にも活用される素材なのだ。古き戦国時代では、薬研(やげん)を使って焔硝(硝石粉末、硝石とは硝酸カリウムのこと)、硫黄粉末、木炭粉末を混合して黒色火薬を製造していた。現在でも原料はそのまま、さらに威力を増した自家製爆薬になるし、人を殺傷する銃弾として活用することもできる…。いずれにしろ危険極まりないテロに利用される可能性もあるのだ。
「自分は信者ではありません。とにかく、急いでそこへ行ってください」
ほどなく、花咲は『インコ真正教』の施設(砦)を一望できる高台から、その門を破り、いくつかのサティアンに踏み込んで強制捜査する怒涛の機動隊を目撃することになった。
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「そこから先の『インコ真正教』の末路はよく知っているだろう?」
花咲はそう言葉を結ぶと、グラスに残った333(バーバーバー)を一気に飲み干した。
「へー…そんなことがあったんですか…」
333(バーバーバー)をあおる花咲の姿を見て緊張が解けたのか、清水もため息交じりで言葉をつなぐ。
「で、その『粉末硫黄』2トンはどうなってたんですか」
「幸い納品したそっくりそのまま倉庫に眠っていて、警視庁がすべて押収したそうだ」
「『インコ真正教』はそれを自家製火薬の材料にして、テロに利用しようとしたんでしょうかね?」
「わからんよ…ただ、その砦にゴムを作る機械など無かったのは事実のようだ」
「でも…花咲部長、商社にとっては難しいところですよ。転売されたら誰のところに行くかわからないし…」
「ああ、確かに…だけど、その事件があって以来、個人向けに『粉末硫黄』を販売することは禁止しているし、最終用途も確認してから販売する様にしているよ」
「なるほど…今のルールはそういう経緯があったんですね」
「どんなものでもそうだが、受注の喜びに目がくらみ自分らが納品する先に『興味索然(きょうみさくぜん)』であってはいけないと心に刻んでいるよ」
「出た!久しぶりに聞く花咲部長の小難しい四文字熟語!なんですかその『興味索然』ってのは?」
「興味が尽きてなくなる…つまり、まったく無関心になるってことだな」
「じゃぁ、普通にそう言えばいいじゃないですか!」
爆笑するふたり。
その時 花咲のスマホが震えた。花咲は『すまん』と清水に片手をあげてスマホを取り上げた。
「はい、花咲です…ああ…そうか…では明日の朝処理するから…遅くまですまん。早く帰って休めよ。ありがとう」
「花咲部長、仕事ですか?」
「ああ、グェンさんからだよ」
「さっきオフィスで挨拶させていただいた人ですね。こんな時間まで仕事ですか…」
「自発的な残業でね…よく働いてくれて助かるよ。日本語も通じるし」
「天然ゴムの引き合いですか?」
「いやゴム材料の発注があったそうだ」
「へぇ…天然ゴム以外でも商売するんですね」
「ああ。白ゴム商事のベトナム代理店の位置づけもあるからな。薬剤も機械もやるよ」
「ちなみに…今回の発注は何です?」
「『粉末硫黄』10トン、納品先はシリアだ」
清水はかぶりついていた生春巻きを、そのままテーブルに吐き出した。
(特別編 了)
注※この物語はフィクションです。物語で起きる事件、および登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
その二 『天網恢恢』の巻
その三 『陰徳陽報』の巻
その四 『射石飲羽』の巻
その五 『含飴弄孫』の巻
最終回 『虚往実帰』の巻
Episode “0” 『興味索然』の巻